『追憶』降旗康男監督インタビュー「"活動屋"の世界は水が合った」
東京大学文学部仏文学科を卒業後、1957年東映東京撮影所に入社した降旗康男監督。数々の名作を生み出してきた、日本を代表する映画界の巨匠が映画業界に入ったのは、じつは意外な理由からだったのです…!
■いま撮影したばかりの映像が現場でチェックできることの弊害
-今の映画界について、制作の仕方などで、ご自身のやり方と違う部分はありますか?
今はモニターというものが出てきて、現場にモニターが何台かあって、その中に姿あるいは物が収まっているか、収まっていないかを、みんなモニターで見ているんですよ。そこは、昔のやり方とは、少し変わってきているところだと思うんですよ。モニターを見るのもいいけれども、そこに俳優さんが入っているか入っていないかだけじゃなくて、俳優さんが何やっているかということを、あるいは風景がどう流れていくかということを見て、判断してもらえればいいなとは思います。そんなふうに僕らはやって来ていますね。
-監督ご自身は今後も、たとえば木村キャメラマンと新しい作品を作りたいという思いもおありですか?
大ちゃんと一緒だったら僕は楽ですけど(笑)、そうじゃなくても、「これ、作ってみない?」という誘いがあれば、そして「よし」と思ったら、やらせてもらえたらありがたいなと思います。
■学校で弁当を食べたら映画館に行って、2本立てを観ていた
-監督にとって、映画界に入る前、映画とはどういうものでしたか?
田舎の高校に行っていた頃は、映画は1日に2本観るものでした。学校で弁当を食べたら町の映画館に行って、2本立てを毎日1館ずつ観たりしていましたね。東京に出てきてからはあんまり観なくなって、一旦は縁がなくなったかなと思っていました。
ところがいろんな事情で、「これは就職しないといけないな」となっていたところに、映画会社の求人広告を見つけまして。僕らは文学部だったのですが、東映っていう会社はサラリーが、上から2番目だか3番目だったんですよ。というところから、僕の映画史はまた始まるわけです(笑)。
-(一同笑)そうだったんですね! でも、そこで木村キャメラマンと出会って名作を生み出すことになるとは、そこでの判断もまた運命的というか、間違っていなかったということですね…!
そうですね。大ちゃんに会うまでの時期にしても、僕は“活動屋”の世界には水が合ったんですね。結局はそういうことだと思います。
-映画を作るにあたって、いちばん大切なことは何ですか?
「撮りたい」と思うか思わないかですね。きっと、惰性でやるとダメですね。
-すごくシンプルなのですね。今作は監督にとって3年ぶりの新作で、木村キャメラマンとは9年ぶりのタッグとなりますが、本当に撮りたいと思うものだけ撮ってこられたということですね。
そういうことだと思っています。
-今日はありがとうございました!
【『追憶』降旗康男監督インタビュー(全4回)】
(1)安藤サクラは「能登半島のマリア」
(2)降旗康男監督が岡田准一と小栗旬に出した「宿題」
(3)木村大作キャメラマンと降旗康男監督の「あ、うん」の呼吸
(4)「"活動屋"の世界は水が合った」降旗監督が映画業界に入った理由